ジョック・ヤング
『排除型社会――後期近代における犯罪・雇用・差異』
 序 文

 本書は、困難〔difficulty〕と差異〔difference〕について書かれた本である。20世紀終わりの3分の1は、先進産業諸国において社会を紡いでいた糸が急速にほどけた時代である。そのことは、個人主義と社会的平等への要求が高まったことにも示される。その背景には、市場の力が社会のすみずみまで浸透して、そのために社会生活が大きく変容したことがある。差異が、政治や公共生活、教室、家族などあらゆる領域を、ゆっくりと、しかし確実に浸食しつつある。この流れは、安定的で同質的な包摂型社会から、変動と分断を推し進める排除型社会への移行として捉えることができる。後期近代世界においては、排除は社会の3つの次元で進行した。第1は労働市場からの経済的排除である。第2は市民社会の人々のあいだで起こっている社会的排除である。第3は刑事司法制度と個人プライバシー保護の領域で広がっている排除的活動である。

 私たちは、大規模な構造変動の時代に生きている。正規雇用の労働市場も、非正規雇用の労働市場も根底から変容した。女性の雇用形態が劇的に変わった。経済構造に根ざす失業者が大量に生みだされた。古いコミュニティが解体し、多様な文化を内包する新たなコミュニティが生まれた。余暇の過ごし方が大きく変わった。社会空間が再編成された。国家の諸制度が改革され、そのことが市民の再評価を受けるにいたった。このような社会構造の変容とともに、文化も劇的な変容を被っている。人間の欲望の中身が変わった。マスメディアの発達により〈地球村〉といった考えが、現実味を帯びるようになった。努力すれば報酬が増えるという昔ながらの考え方は、もはや通用しなくなった。個人主義が社会生活のあらゆる領域で制度化され、それは、これまで神聖視されていた領域にまで浸透した。市場が謳いあげる欲望むきだしの言葉が、社会民主主義と近代主義の〈大きな物語〉に対抗し、後者を脅かしている。これらすべて──広範な構造的・文化的な変容──は、犯罪や反社会的行為が急激に増加したことと結びついており、したがって、現在生じている規範や基準をめぐる論争に直接かかわっている。

 私たちは今日、以前にも増して困難な時代に生きている。私たちには、かつてないほど多くの選択肢が与えられている。私たちの生活は、かつてのような仕事や人間関係に固く根を張ったものではなくなった。私たちは日常生活のなかで、現実にであれ、たんに恐怖や不安というかたちであれ、なんらかのリスクにさらされている。私たちは、物質的に不安定な状態に置かれている。また、存在論的な不安の感情にさいなまれている。さらに私たちは、差異に満ちた世界に住んでいる。すなわち、規則が年ごとに変わるだけでなく、集団ごとにも異なるという世界に住んでいる。マスメディアは、私たちの生活のなかで中心的な役割を果たしている。マスメディアを介した間接的な人間関係が、対面的な人間関係より重要なものになっている。私たちは、驚くほど多くの時間、おそらくは週に30時間も40時間ものあいだ、テレビを観たり、ラジオを聴いたり、新聞を読んだりして過ごしている。メディアの番組はどれも、困難と差異、リスクと規則をめぐる議論であふれている。社会の規範がどうあるべきかが、日々、テレビのトークショーや連続メロドラマ、ニュース番組、スポーツ番組などで、些細な点にわたって議論されている。歴史のなかで、人々が自己反省のためにこれほど多くの時間を費やしたことは、かつてなかった。これほど多くの人々が、ほかの人々を眺めながら過ごしたこともかつてなかった。一つひとつの規範のもつ意味が、これほど厳密に精査されたこともかつてなかった。

 このような都市に特徴的な状況にあって、私たちは、用心深く、計算高く、世事に長け、保険統計的な〔actuarial〕態度をとるようになった。そして、困難な問題を回避し、異質な人々と距離をとり、みずからの安全や平穏が脅かされないかぎりで他人を受け入れる、という態度をとるようになった。しかし、このように判断を留保する態度が一般化するとともに、これとは矛盾する態度が現われた。物質的に不安定で存在論的に不安な状況が、人々のあいだに、自分の感情を他人に投影するという態度を生み出し、道徳主義を広める条件になっているのである。社会のいたるところで、人々のあいだに非難と応酬が飛び交うようになった。シングルマザーやアンダークラス、黒人や放浪する若者、麻薬常習者、クラック常習者などの、コミュニティで弱い立場にある人々が、針で突つき回され、非難を浴びせられ、悪魔のように忌み嫌われるようになった。このような新たな排除の世界にあって、本当に革新的な政治をおこなおうと思えば、私たちを物質的な不安定と存在論的な不安の状態に置いている根本原因、すなわち正義とコミュニティという基本問題を避けて通ることはできない。これまでならば、政治的には、1950年代や60年代のような包摂型の世界へのノスタルジーに耽ることで、議論を収めることもできた。しかし事態は、もはや後戻りできないところまで来ている。私たちは、もろもろの機会を目前にして、恐怖を取り除くのではなく、恐怖を積極的に受け入れるという姿勢で臨まざるをえなくなった。本書では、このような事態が意味するものを、そうなった経緯をたどりつつ明らかにしたい。

 * なお、この「序文」は、本書書籍にあるルビや訳註を省略して掲載しております。正確な文章は本書書籍でご確認下さい(編集より)。