マウリツィオ・ラッツァラート
『出来事のポリティクス―― 知‐政治と新たな協働』
第2章 「コントロール社会における生と生体の概念」より

[本書の第2章のなかの108〜112頁を抜粋。なお、ルビと訳註の一部、原註を省略し、また、漢数字を算用数字に替えて、下記に掲載しております。]

 コントロール社会がその権力を行使することができるのは、離れた場所の映像や音声、データを伝達する技術のおかげである。そうした技術は、波動や電磁波を変調させて結晶化させる機械(ラジオやテレビ)に、あるいはデジタル信号を変調させて結晶化させる機械(コンピュータとデジタル・ネットワーク)に使用されている。それらの無機的な波動が増幅されることによって、モナドたちは互いに作用を及ぼしあうのである。

 そのような方向への兆しは、すでに19世紀末にあらわれていた。実際、タルドは、なんらかの印象がある精神から別の精神へと距離を隔てて伝わるばあい、そこには二種類の仕方があると述べている。第一は、あらゆる印象が記憶のなかに保存され、繰り返されるような仕方である。第二は、あらゆる表現された印象が、あるいは「いわば魂から発せられたすべての波が、無限の波動となって、はてしなく広がっていく」ような仕方である。その波は一種の規則性を示しながら姿をあらわし、さまざまな技術的装置がその規則性に介入し、作用する。

 かりに記憶と注意を生命的動力とみなすとしたら、遠隔作用の技術のほうは人工的動力、あるいは人工的記憶とみなすことができる。前者の生命的動力は非有機的エネルギーによって、つまり潜在的なものによって機能する。それにたいして、後者の人工的動力あるいは人工的記憶のほうは、記憶や注意とともに動的編成に組み込まれ、記憶の働きと重なりあうものである。

 時間の結晶化機械あるいは時間の変調機械は、出来事や脳の協働にたいして、そこにある諸力を変調させることをつうじて、内側から介入するための装置である。その介入によって、この機械は、任意の主観性を構成するプロセス全体の条件となる。そこから直ちに、このプロセスは、さまざまな波の調和に、あるいは(バフチンの表現を使うなら)多声音楽[ルビ:ポリフォニー]と似たものになる。

 したがって、記憶としての生と、人間という種として生物学的に特徴づけられる生(死、誕生、病気など)は区別されなければならない。すなわち、記憶が意味する生と、生‐権力のカテゴリーが意味する生は区別されなければならない。ここでわれわれは、異なるものを同じ言葉で示さないために、記憶とそのコナトゥス(注意)を対象とするこの新たな権力関係を、知‐政治[ルビ:ヌー・ポリティーク]と定義することにしよう。知‐政治(コントロール技術の総体)が脳に作用を及ぼすのは、まず注意を惹きつけることによってであるが、それは記憶と潜在的な力能をコントロールするためである。そのとき記憶を変調することは、知‐政治のもっとも重要な機能になる。

 規律訓練が、身体を型にはめ、習慣を身体的記憶のうちに構成することを主眼としているとしたら、コントロール社会は、脳を変調し、精神的記憶のうちに習慣を構成することを主眼としている。

 したがって、規律訓練は身体の成型(監獄、学校、工場など)を遂行し、生‐権力は生の管理(福祉国家、健康の政治など)を組織化し、知‐政治は記憶とその潜在的な力能の変調(電波ネットワーク、音響映像ネットワーク、情報通信、および世論や集合的知覚・知性の構成)を制御する。それぞれに対応する社会学的な概念は、(監禁様式のひとつとしての)労働者階級、人口、そして公衆である。

 コントロール社会は、この三種類の装置すべてから構成されているのであって、最後の装置だけから構成されているのではない。

 これらの三つの異なる権力装置は、それぞれ異なる時代に生まれ、それぞれ異なる目的をもったものであるが、そのひとつが別のひとつによって置き換えられるようなことはなく、互いに動的編成を形成しながら作用しているのである。今日のアメリカ合州国は、この三つの権力装置が統合されることにより、コントロール社会のもっとも完成したモデルとなっている。アメリカにおける規律訓練型の監禁装置、とりわけ監獄は、飛躍的な拡大を遂げている。アメリカの監獄に収容されている囚人の人口は200万人に上るが、これはアメリカの人口全体の1%を占めている。かつて、いかなる規律社会も、これほどまでに高い数値を達成することはできなかった。生の管理を目的とする生‐政治の装置は消滅したどころか、反対に、深い変容をともないながら拡大している。すなわち、かつての福祉制度[ルビ:ウェルフェア]は、現在では、勤労福祉制度[ルビ:ワークフェア][訳註:社会保障の見返りに職業訓練を要求する制度]へと変わった。また、社会的リスク(失業、退職、病気)を保障するというかつての方針は、現在では、諸個人の生に介入し、隷属労働への従事を強制するという方針に変わったのである。知‐政治の新しい諸装置(最初の装置は19世紀後半に登場した)は、情報技術と通信技術の発達にともなって、飛躍的な進歩を遂げた。三種類の権力装置のあいだの違いは、ドゥルーズの言葉を利用するなら、「脱領土化」の度合いの差である。知‐政治が他の権力関係に命令し、他の権力関係を再組織すると考えられるのは、知‐政治がもっとも脱領土化した次元(さまざまな脳の相互作用にそなわる潜在性)において作動しているからである。

 それでも世界全体を眺めれば、われわれが目の当たりにしているのは、規律訓練制度の飛躍的な拡大であることはたしかである。たとえば工場と工場労働――マルクスと経済学者たちが考察してきたような――は、衰退しているどころか、その反対に拡大する一方である。国際労働機関(ILO)によれば、2億6200万人もの子どもたち(5歳から17歳)が労働者として働いている。また西欧諸国においては、フォーディズムの時代よりも賃金労働者の人口がさらに増加している。しかし、それらの現象が起こっている平面に根本的な変化が起こっていることもたしかである。主体‐労働のパラダイムから出発するかぎり、この変化を理解することはできない。そのことは、理論的平面よりも政治的平面において、さらに明らかである。

 産業労働は、もはや資本主義の価値創出の中心ではない。また、それはもはや、社会的諸力をまとめあげるような、政治的・社会的な主体化のモデルではない。さらに、それはもはや、コントロール社会においてさまざまな制度や政治性を生み出すような、独占的な力ではない。西欧諸国における賃金労働者は、一方では、資本主義が主観性の協働とその発明の力能を搾取するための、主要な形態でありつづけている。しかし、他方では、賃金労働者は、多数多様な活動や地位へと分散してしまった。明らかに、彼らのさまざまな主観性と期待は、伝統的な階級概念のなかに収まるものではなくなったのである。

 しかし、問題の根はもっと深いところにある。重要なことは、もはや産業労働が資本主義の価値創出の中心でなくなった、ということだけではない。さまざまな新しい活動形態を数え上げ、言語や情動、知識、生が再生産の労働によって生産的になると考えてしまうと、われわれはもはや、創造と搾取を可能にするダイナミクス――つまり差異と反復のダイナミクス――を理解することができなくなってしまうのだ。ここでわれわれの理解を阻むものこそ、まさしく主体‐労働のパラダイムなのである。